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玉川上水の歴史

玉川上水の歴史

1 玉川上水開削以前の江戸の水事情

 天正18(1590)年、徳川家康は江戸入府に先だち、家臣大久保藤五郎に水道の見立てを命じました。藤五郎は小石川(※現在の東京都文京区小石川)に水源を求め、神田方面に通水する「小石川上水」を作り上げられたと伝えられています。
 江戸の発展に応じて、井の頭池や善福寺池・妙正寺池等の湧水を水源とする「神田上水」が完成したのは寛永6(1629)年頃とされています。一方、江戸の南西部は赤坂溜池を水源として利用していました。
 慶長14(1609)年頃の江戸の人口は約15万人(スペイン人ドン・ロドリゴの見聞録による)でしたが、3代将軍家光のとき参勤交代の制度が確立すると、大名やその家族、家臣が江戸に住むようになり、人口増加に拍車がかかりました。もはや既存の上水だけでは足りなくなり、新しい水道の開発が迫られるようになったのです。

2 玉川上水の開削

 承応元(1652)年、幕府は多摩川の水を江戸に引き入れる壮大な計画を立てました。設計書の検討及び実地調査の結果、工事請負人を庄右衛門、清右衛門兄弟に決定し、工事の総奉行に老中松平伊豆守信綱、水道奉行に伊奈半十郎忠治が命ぜられました。
 工事は、承応2(1653)年4月4日に着工し、わずか8か月後の11月15日(この年は閏年で6月が2度あるため8か月となります。)、羽村取水口から四谷大木戸までの素掘り(崩れの補強を行わずに掘削すること)による水路が完成しました。全長約43キロメートル、標高差はわずか約92メートルの緩勾配(緩い傾斜)です。羽村からいくつかの段丘を這い上がるようにして武蔵野台地の稜(りょう)線(尾根:谷に挟まれた山頂など高い部分の連なり)に至り、そこから尾根筋を巧みに引き回して四谷大木戸まで到達する、自然流下方式による導水路です。
 翌年6月には虎の門まで地下に石樋、木樋による配水管を布設し、江戸城をはじめ、四谷、麹町、赤坂の大地や芝、京橋方面に至る市内の南西部一帯に給水しました。
 兄弟は褒章として玉川の姓を賜り、200石の扶持米と永代水役を命ぜられました。
 以上はほぼ「上水記*」の記述によりますが、「玉川上水起元*」によれば、工事には2度の失敗があり、信綱の家臣で野火止用水の開削者安松金右衛門の設計により羽村に取水口を決定し、玉川上水成功に導いたとも言われています。

地図 江戸市中の主要樋筋(1680年代)

*上水記
寛政3(1791)年に、江戸幕府普請奉行上水方の記録として作られた。玉川上水、神田上水の概要、その他の分水についての概略等が記されている。

*玉川上水起元
享和3(1803)年に、江戸幕府普請奉行から老中松平伊豆守信明あてに提出された報告書で、上水開削の起こり、分水に関する記載がなされている。

3 玉川上水の分水

 玉川上水は武蔵野台地の尾根を流しているので分水が可能でした。
 最初に分水されたのは野火止用水で川越城主松平信綱が玉川上水開削の功により許可されたものです。(明暦元(1655)年)
 青山、三田、千川の3上水も明暦の大火後拡張した江戸の水需要を支えるため分水されましたが、享保7(1722)年に突然廃止されてしまいました。その理由は、室鳩巣の献言(*)や財政難で水道の維持が困難になったため、あるいは堀井戸の普及によるものとも言われています。「上水記」によれば寛政3(1791)年頃には33分水が記録されています。廃止された三田上水、千川上水も農民の強い要請で用水として復活し、寛文7(1667)年、水量の少ない神田上水にも助水されています。
 これらの分水が、飲料水、かんがい用水及び水車の動力として利用され、水の乏しい武蔵野台地の開発に貢献したことは言うまでもありません。

*室鳩巣の献言
江戸の風は明暦の頃までは重々しかった。地中に水道管が張りめぐらされた地脈が分断された昨今、風が軽くなって火災を誘発している。 火災予防のためには水道を廃止すべしとの説である。(献可録)

4 近代水道の建設

 慶応4(1868)年、明治維新により江戸は東京に変わりましたが、玉川上水は依然江戸時代のままでした。
 江戸時代から運輸の中心は舟運でした。人馬に比べれば船の輸送力は圧倒的で、江戸時代にも地元の有力者から何度か玉川上水の通船願いが出されましたが、上水の水質悪化を案じた幕府が許しませんでした。
 ところが、維新の混乱期の故か新政府が許可してしまい、明治3(1870)年4月、羽村から内藤新宿まで玉川上水を船が往来し、大変な繁盛だったとの記録が残っています。しかし、水質の悪化は避けられず、明治5(1872)年5月、わずか2年で通船は廃止されました。
 文明開化の明治時代には、欧米から新技術が次々と導入されましたが、良いことばかりではありませんでした。しばしばコレラが大流行しました。玉川上水の水質がいかに良くても、末端の木樋に汚水が流入するようでは仕方がありません。浄水場で原水を沈殿、ろ過し、鉄管を使用して加圧給水する近代水道の建設が急務となりました。

そこで、玉川上水を導水路としてそのまま使用し、代田橋付近から淀橋浄水場までを結ぶ新水路を建設し、明治31(1898)年12月に近代水道は神田、日本橋方面に給水を開始しました。

5 淀橋浄水場の廃止と現在の玉川上水

 昭和40(1965)年、武蔵水路が完成し、水不足解消の切札として利根川の水が東京へ導かれました。淀橋浄水場は廃止となり、その機能は東村山浄水場へと移されました。

 そして、玉川上水の導水路としての役割も野火止用水との分岐点でもある小平監視所で終了しました。
 羽村取水口から取り入れられた多摩川の原水は下流500メートルの第三水門を通過すると、取水所より遠隔操作で村山貯水池(自然流下方式)と小作浄水場(ポンプ圧送)に送水されます。残りはそのまま玉川上水路を流れ、途中6分水(福生、熊川、拝島、立川、砂川、小平)に放流し、12キロメートル先の小平監視所に至ります。沈砂池に導かれた原水は管路で東村山浄水場へ送られます。

6 玉川上水の清流復活

 淀橋浄水場の廃止後、導水路としての使命を終え、流れの途絶えていた小平監視所下流の玉川上水は、玉川上水を愛する人々の尽力もあって昭和61(1986)年、清流復活事業により流れが復活しました。
 東京都下水道局多摩川上流水再生センター(昭島市)で処理された再生水は、約18キロメートル下流の高井戸の浅間橋付近まで流れ、そこから管路で600メートル北の神田川に合流しています。
 なお、野火止用水(昭和59(1984)年)及び千川上水(昭和63(1988)年)も清流復活事業により流れが復活しています。
 小平監視所の下流左岸に玉川上水と並行して流れている小平分水(新堀用水)は、明治3(1870)年、通船準備のため野火止用水から千川上水までの9本の分水を一つの分水口にまとめるために掘られたもので、今もその流れを見ることができます。

7 玉川上水の保全へ向けた取組

(1)歴史環境保全地域の指定

 昭和40(1965)年、淀橋浄水場が廃止され、通水されなくなった玉川上水の一部が暗渠化されると、地域の人々を中心に、玉川上水保全の運動が起こりました。
 都市化の進展とともに、宅地化され緑の少なくなった武蔵野台地にあって、玉川上水は、身近な水と緑の空間として、また、郷土史、文学史等の歴史的背景からも、流域の人々に特別な愛着を持たれています。
 そこで、東京都では、「東京における自然の保護と回復に関する条例」に基づき、平成11年3月、玉川上水を歴史環境保全地域として指定し、歴史的価値の高い水路、法面、多摩地域から都心に伸びる樹林帯としての自然環境、水辺環境などを後世まで保全することとしました。
 なお、平成14年に区域が拡張されています。

※保全地域・・・玉川上水路の羽村取水口(羽村市)から新宿区(四谷大木戸)までの区間の水道局管理用地のうち開渠部分

(2)国の史跡指定と計画の策定

 竣工350年を迎えた玉川上水は、平成15(2003)年8月、江戸、東京の発展を支えた歴史的価値を有する土木施設・遺構として、文化財保護法に基づき、国の史跡に指定されました。
 東京都水道局は、学識経験者や関係局、地元市等と検討を重ね、平成19年3月、「史跡玉川上水保存管理計画」を策定し、保存管理の長期的指針を定めました。
 また、平成21年8月、今後10年間の具体的施策を定める「史跡玉川上水整備活用計画」を策定し、緑に囲まれた土木遺構を良好に保全するとともに、歴史的価値を広く伝え、都民に親しまれる「水と緑の空間」を次世代へ継承していくための取組に着手しています。

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